ほぼひとりごと

環境問題の主体のあり方について

 先日、前の職場である総合地球環境学研究所から冊子が送られてきました。高知県長岡郡大豊町怒田(ぬた)での経験を通じて、地域社会への貢献や学術的な発見につながる過程を記録した冊子だそうです。その中の一文を紹介しましょう。

 

「『私』は言語によって定義される。同じ『私』でも、それを主体と言った時と、自我と言った時、その様態は異なる。近年、環境問題を巡って、これまで見逃されてきた主体のあり方に注目が集まっている。菊地直樹はコウノトリ野生復帰の現場で『ほっとけない』という受け身でありながら主体的な姿勢を見出し(菊地2017)、林憲吾は環境保護に半身で関わるという『ためらい』というあり方を建築・都市計画の現場から発見し(林2017)、寺田匡宏は『巻き込まれ』という状況へのコミットのあり方の特質を災害や開発にかかわる人類学の現場から抽出した(寺田2017)。それらは、哲学の國分巧一郎が注目する中動態とも通じる、受動と能動のはざまにあるあり方である(國分2017)。環境学研究においては、アンソロポシーン説の登場など、だれがこの地球の主体かという問題が問われている。それは、従来の、主体/客体の二分法を再考することを求める。その二分法とは、受動と能動を截然と区分する近代ヨーロッパ語の構築したものでもある。とするなら、受動と能動という区分のあり方を再考させる日本語における主体のあり方は、グローバルに見て地球環境学問題の解決にある一つのヒントを与えることになるのではなかろうか」(寺田匡宏,2018,「能動/受動と環境主体性」地球研若手研究員プロジェクト編『超学際主義宣言:地域に人をどう巻き込むか?』総合地球環境学研究所)。

 

引用文献

菊地直樹(2017)『「ほっとけない」からの自然再生学:コウノトリ野生復帰の現場』京都大学学術出版会

林憲吾(2017)「環境保全をためらう理由」『平成28年度総合地球環境学研究所所長裁量経費報告書』総合地球環境学研究所

寺田匡宏(2017)「援助の姿勢を考える:書評:石山俊『サヘールの環境人類学』、清水貴夫『ブルキナファソ』」『Humanity & Nature』66

國分巧一郎(2017)『中動態の世界:意志と責任の考古学』医学書院

 

 

 寺田さん(歴史学)、石山俊さん(文化人類学)、三村豊さん(建築史・都市史)の3人の研究者が環境問題に関連する主体のあり方を論じているこの冊子。石山さんは6人称の研究を提唱し、三村さんは環世界という態度という視点を提示し、寺田さんは能動/受動という二分法的認識論を問い直しています。

 地球研は、国内外からさまざまな分野のさまざまなフィールドを研究してきた老若男女の研究者たちが、期間限定的に集う場です。4年8ヶ月いたわたしは、まあまあ長く在籍したほうでしょう。当初、地球研の落ち着きのなさや大風呂敷を広げる地に足がつかないかのような研究スタイルに違和感をもつこともありました。ただ今になってみると、いろいろな人と出会ったことが財産になっていると実感しています。

 寺田さんが引用してくれているように、わたしは「ほっとけない」という受け身でありながらかかわっていく主体性のあり方から、そして研究と実践という「はざま」にある研究のあり方から、環境問題を考えていこうとしています。その流れのなかから「日本語から考える環境のことば」という視点から総合地球環境学を創っていくアイデアも芽生えてきました。この冊子を広げた時、同じようなことを考えていたんだ!と、ちょっと嬉しい気持ちが湧いてきました。専門は違うし、フィールドも違う。寺田さんは理論的に考えることができるけど、わたしはフィールドから考えていくことが得意だ。経験も違うし、スタンスも違う。だけど共通の議論を行うことができる。

 環境問題をめぐる主体のあり方は、特定の学問にとどまる問題ではないでしょう。いろいろな学問をいわばサラダボールのようにごちゃ混ぜにし、そこから環境問題の解決に資する主体のあり方、そして研究のあり方を創っていく。こうしたことを考えていくためには、ある程度ゆるやかでいろいろと隙間があるネットワークの方がいいのかもしれません。その方が創造性を発揮しやすいこともあると思うからです。

 期間限定的な研究者の集う場の役割の一つは、ゆるやかなネットワークを創ることにあるのかもしれません(そこで仕事をするのは大変ですが)。

Webデザイン

 このWebサイト。もちろん、絵心がない僕がデザインしたわけではない。餅は餅屋である。プロにお願いした。

 僕からデザイナーへのリクエストはいたって単純。載せたい情報はこれとこれとこれ。トップページには「環境活動の『見える化』ツール」をおきたい。なるべく親しみやすいページにしてほしい。少しだけ僕の研究活動について話した。打ち合わせに要した時間は10分か15分ぐらいだった。

 後日、送られてきたデザイン案を見たとき、「プロだな」と唸った。僕の研究活動が伝わるデザインとして表現していたからだ。

 とても気に入った。ただ、ちょっと柔らかすぎる気もした。「もう少し直線的な案もみたい」とメールでリクエストすると、まったく違うものが提案された。どっちも気に入ってしまった。迷った。どうしよう。けっきょく直感で決めた。後から提案されたのが今のデザインである。僕からのリクエストは短くシンプルであったため、説明不足で迷惑をかけたと思う。

 

 地球研の飲み会でのこと。ある若手研究者から「菊地さんはデザイナーと協働したほうがいいですよ」といわれたことがある。僕の仕事を違う表現で伝えていったほうがいいという趣旨だったと思う。「自意識過剰系のデザイナーとは特に相性が悪いんだよね」と返したように記憶している。「俺が」「私が」と自分のアイデアやデザインを強いてくるデザイナーは、どうも苦手なのである。

 勝手な想像そして浅はかな理解であるが、自分の内なるものを表現する人が芸術家だと思っている。その作品は商売になることもあるが、ならないこともあるだろう。それに対してデザイナーにはクライアントがいる。クライアントの話をよく聞きながら、でもクライアントだけでは表現できないものを創っていく。デザイナーは、協働作業をする仕事なんだと思う。ここでは、デザイナーの「私」は少し後ろに引いている。でも「私」が表現されていないわけでもない。

 「研究対象者」といわれる人びとはたんなる対象者ではなく、一緒に考える存在と考えれば、研究者もデザイナーに似ているかもしれない。もちろん「対象者」はクライアントではない。一般的に研究者の方が、力が上のことが多いだろう。だから単純に比べることはできない。でも、人びとの話をよく聞きながら、人びとだけでは見えないものを見えるようにしていく。そして人びとが使える知的資源としていく。こうした協働作業は、研究活動のなかにいろいろとあるはずだ。そこから研究者はいろいろなことを学んでいるはずだ。こういうと「研究とはもっと崇高なものである」「御用聞きみたいなことは研究ではない」と怒られそうだ。

 

 

 こんなことを書いている僕は「自意識過剰」なのかもしれない、です。

ホームページ開設

 SNS全盛のなか、ホームページを開設することには今さら感があるような気がしています。これまでつくっていなかったので、これからもないと思っていました。それでも開設した理由は幾つかあります。

 

 一つは、大学で働きだしたからです。ちょっと恥ずかしい話を吐露します。赴任して1ヶ月が過ぎ、ゼミ生を募集することになりました。面接日を設け研究室で訪問を待つが、訪問者はなし。新任で授業を担当していないし誰も知らないだろう。とは思うものの、なんか釈然としないものが残ってしまいます。その一方、いきなり外国から研究生を希望する問い合わせがきたりします。大学に来たんだなと実感しました。もっとも外国からの依頼は数多くあるようで、珍しくもなんともないようです。それはともかく、教育機関に所属したからには、自分の取り組みをそれなりに伝える必要があると思ったのが、理由の一つです。

 

 もう一つは、研究仲間とNPOと共同で開発した「なかまと話そう! 環境活動の『見える化』ツール」を公開しようと思ったからです。こうしたツールは多くの人に使ってもらってこそ、意義があると思います。なるべく多くの人に触れてもらうためには、ホームページがあった方がいいと考えました。もちろんFacebookでもいいのでしょうが、Facebookは情報がいつも流れていることに意義があるので、こうしたツールを置いておくメディアとしては、あまりふさわしくないと思っています。来週にはトップページに表示するようにします。

 

 もっともらしいリクツを並べていますが、なんか新しいことをしてみたい、面白そうだというのが率直な理由です。

 

 まだ工事中のところもありますし、内容が整理されていない箇所もたくさんあります。業績のリンクも貼りきれていません。ちょっとずつ修正をしていこうと思います。

 それにしても説明の文章が長いし、くどいですね。もっとコンパクトにしていきたいと思っています。

 

 ブログのタイトルは「ほぼひとりごと」にしました。時々、更新します。

 

 これからもよろしくお願いします。

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